軍需工場で重労働
私は、中学1年の時、学徒動員で軍需工場・松風工業へ狩り出されました。最初の工場見学のときは、おもしろそうな軽作業をやらせてもらえるという話でしたが、戦場で使う浄水器の製造で、大変な重労働でした。
学校は、皇室中心主義の立命館中学校でした。「先生の命令は天皇の命令」とされていましたので、とても苦情などいえない状態でした。
自然発生したストライキ
日を追ってノルマがきつくなり、体調を壊す者もありました。こうしたある日の朝、神足駅前で会社出勤に嫌気を覚えたものが数人集まったのが始まりで、みるみる数十人に膨れ上がり、誰がいうこともなく「先生と工場の仕打ちがあまりにも酷いのでストライキをしよう」ということになり、実行に移しました。あわてた先生は、級長を通じて「明日、皆の言い分を聞こう」といってきました。
翌朝、出勤すれば、言い分を聞くどころか全員を工場前広場に、直立不動の姿勢で横一列に並ばせて往復ビンタの制裁を始め、「首謀者は誰だ。言うまでやめんぞ!!」と怒り狂うありさまでした。
口の中が切れて血を吐くものもいましたが、皆こらえて何も言いません。そのうちにあまりに緊張してぶっ倒れるものがでてきました。中には、池に突き落とされたものもいます。
そのとき、常々責任感が強く、男気のある私の親友、小塚啓司君が「僕がやりました!」とツカツカと先生の前に出てゆきました。もちろん彼は首謀者なんかではありませんが、皆の痛みを見るに見かねて自分を犠牲にしたのです。
先生は「この国家非常事態になんと思っているんか!!」と激怒し、小塚君に暴行を加えました。もう一人の先生の仲裁で、暴行はストップされましたが彼の顔は紫色に腫れ上がっていました。こうして、小塚君は教員会議にかけられ、退学処分となりました。正しい言い分が一切通らないあの当時は、今考えてもゾーっとします。
敵機による機銃掃射で犠牲者が
敗戦濃厚なある日の、昼休みです。私たちは、工場前の広場で休んでいましたら、警戒警報も出ていないのに、突如「ギ―ン」とあの独特のエンジン音の高い一機のグラマン戦闘機が低空で飛来し、「バリバリバリバリ」と機銃掃射してきたのです。私たちは、我先にと防空壕に飛び込みました。松風工業には東洋一のトンネル釜がありましたが、あれに命中していれば大火災となり、私も命を落としていたでしょう。
グラマンが去り、ほっとしていたら、隣の日本輸送機の女子社員が亡くなったという噂が伝わってきました。銃弾が背中から胸を貫通して即死だということです。常駐していた憲兵隊員が「このことは家族にも言うな!!」と命令しました。当然のこととして、翌日の新聞やラジオでは報道されませんでした。戦意を喪失させるような報道はことごとく規制されたのです。
報道は規制される
現在は「そんなことあらへん」と思う人が多いのですが、イラクでのアメリカによる掃討作戦で、毎日イラク市民が殺されています。イラクのマジド・カウード・ドレミイ議長が来日して講演していますが、
- イラクには、自衛隊はいらない
- 自衛隊は何もしていない
- 武器を持ってきたから占領軍と一緒だ といっています。
また、アジアプレスの方々は、イラクの人々は「悪魔のフセインは除外されたが、我々に平和はない」といっていると発表しています。なお、自衛隊はオランダ軍に護られているというのは、日本政府がウソをついているといっています。
60年前に京都の西陣に爆弾が落とされて40数名が死に、354軒の民家が破壊されたことも当時は報道されませんでした。報道は「悪い政府により規制される」ということです。