京都市職労ホットライン

御池五目飯


御池五目飯


自由・平等・平和  ベートーベン第九に寄せて

2004/12/28

 今年も年末恒例となっているベートーベンの第九交響曲(合唱付き)の時期。
 京都市交響楽団の演奏会も30年以上も前から続けられている「京都ミューズ」主催と、京響主催による演奏会の2回に減ってしまったのは大変残念でしたが、演奏は大変充実したものでした。

 

■日本での初演と戦争・平和

 今から180年前に作曲された「第九」は、日本では1918年(大正7年)6月1日に,第一次世界大戦ドイツ兵捕虜収容所である徳島県鳴門市板東収容所において初演されました。オケの指揮をとったのはハンゼン軍楽兵曹。50人ほどのメンバー,80人くらいの合唱団という規模で,楽器も楽譜も不備が多く,ソロも合唱も全員男性という極めて変則的な演奏でした。この難解な曲をそれでもあえて演奏した理由は未だ謎ですが,彼らの平和への希求があったのではないでしょうか。日本人の手による全曲初演は1924年(大正13年)東京音楽学校で行われ,日本人の心を大きく揺さぶります。

 1914年に始まった第一次大戦は日本に未曾有の好景気をもたらしますが,労働者や中間者層は物価が大暴騰する生活に苦しみ、労働争議が多発,好況の中での貧富の差の拡大に民衆は政治や社会の大きな矛盾を感じ,1918年の米騒動をきっかけに,労働運動、農民運動などの社会運動(大正デモクラシー)が開花した時期とも重なります。日本でも第九初演時の歴史には注目が必要です。

 

■ファシズム、オリンピックそしてEU統合への道とベートーベン「歓喜の歌」

 1989年11月10日ベルリンの壁が崩壊し、12月には東西の楽団員による第九の演奏がバーンスタインの指揮で行われました。歓喜の歌の歌詞は「Freude(歓喜)」の代わりに「Freiheit(自由)」という言葉が使われベートーベンが当時の検閲を配慮して表現できなかった言葉で歌われました。そして、翌1990年10月3日統一ドイツ誕生記念祝賀祭典において第九が演奏されました。
  この歴史は、その後の欧州連合(EU)結成へと引き継がれ、第九第4楽章の「歓喜の歌」が欧州連合(EU)憲法に欧州連合歌として規定されました。
  また、1992年バルセロナオリンピック開会式の際終盤には,EU統合を歓迎して4分間の第九の演奏がありました。

 オリンピックにおける第九演奏には、その前史ともいえる例があります。
  1936年夏,ヒットラーはナチズムの宣伝と高揚のためベルリンオリンピック開催を誘致します。時同じく,王政の下での軍事独裁政治を打ち破りスペイン共和国を樹立した人民戦線政府は,これに先立つ民衆のオリンピック開催を決定し,かのパブロ・カザルス率いるカザルスオーケストラ&グラシア合唱団(勤労者で構成)が開会式に第九を演奏する予定でした。しかし、フランコ将軍の軍事クーデターにより中止。カザルスは「ファシズムのあるところに平和はない」と言ってプラドという寒村に亡命した。この国に再び平和が来る日が必ず来ると思う。その日にはもう一度第九を演奏しようと言った彼の言葉は脈々と受け継がれ,半世紀を経て実現しました。

 

■京都に響くベートーベン第九

 第九に込められた自由,平等,平和を希求するベートーベンの思いは、京都でも脈々と受け継がれ、1972年,停戦を覆すアメリカの北爆に反対し,京都ミューズは,平和への祈りを込めて「ベトナム人民に送る千人の合唱による1万人の第九」を企画しました。大阪フィルハーモニー管弦楽団,外山雄三指揮,100人に満たない京都「第九をうたう会」に各地から応援が入り,府立体育館において,名実共に演奏者を含め参加者1万人の第九が成功しました。翌73年1月,アメリカはベトナムと和平協定を結びます。

 

 京都コンサートホールに響いた二つの第九,イラクをはじめとした中東の平和を願い、地震と津波の被害にあった世界の人々に生きる自由と平等をもたらすことを願わずにはいられません。

(S.Y)


「ポケット憲法」ふたたび

2004/12/21

 最近「ポケット憲法」がさまざまな所から出版されています。京都市職労でも「日本国憲法」のほかに「九条の会 アピール」、「労働基準法 抜粋」を入れた市職労版「ポケット憲法」を11月に発行しました。またNPO法人化された「ねっとわーく京都21」も市職労と一緒にお茶の間で憲法を語ろうと「日本酒九条」を企画(http://www.kyoto-21.com/nk21/sake_form.htm)し、同時に独自の「ポケット憲法」を配布しています。

 この「ポケット憲法」そのルーツをたどると約40年前の蜷川京都府政の時代にさかのぼることをご存知でしたか?

 

■虎サン 1965年1月8日年頭記者会見

 1964年8月アメリカ政府は、北ベトナムのトンキン湾でアメリカ軍の駆逐艦が魚雷艇から攻撃を受けたとして、「報復」が必要だとの大キャンペーンを行いました。その中で、戦時体制の権限を大統領に「白紙委任」し、北爆を開始。本格的にベトナム戦争に突入しました。そして日本政府はアメリカのベトナム侵略戦争に全面的に協力、加担しアメリカの出撃基地としての役割を一層強めていきました。
  しかし、1971年ニューヨークタイムズは国防省の秘密報告を暴露、アメリカ政府は半年前から北ベトナムへの全面的爆撃を計画、トンキン湾での二度目の攻撃をでっち上げベトナム侵略の口実としたことが明らかになりました。
  日本国内でも1964年内閣の憲法調査会が改憲のための答申を出し、戦争への道を再び歩もうとしていました。

 蜷川京都府知事は1965年1月8日恒例の年頭記者会見で「今年からね、あたしゃ、憲法擁護の運動を行政とし推進していきたいと思ってんですよ。具体的に申しますとね、5月3日の憲法記念の前後に、京都府として憲法をもりたてる行事をする。これに賛同してくれる催しなどに援助していきたいと思ってんです」と述べ、その後府庁あげての憲法運動に踏み出すことになりました。翌日の朝刊各紙は「京都府が憲法運動」と全国ニュースで大々的に報道しています。

 また同月、憲法の平和的、民主的条項の完全実施と、憲法の公然たる改悪を阻止する大国民運動の「よびかけ」が、末川博立命館大学総長、住谷悦治同志者大学総長、大西良慶清水寺貫主、広津和郎氏など33氏によってなされ、2月に東京で中央憲法会議が結成されました。

 

■三色の「ポケット憲法」

 こうした動きをうけて、京都でも3月24日、末川博立命館大学総長、住谷悦治同志者大学総長、田畑忍同志社大学教授、恒藤恭元大阪市立大学長、大西良慶清水寺貫主、シナリオライター依田義賢の六氏のよびかけで京都憲法会議(憲法会悪阻止・京都各界連絡会議)結成されました。その支持委員第1号になった蜷川知事は、府の広報課に憲法記念日に向けて「ポケット憲法」の作成を指示しました。
 初版本は1965年5月3日の憲法記念日に2万部が発行され、一般府職員、教職員は全員に、一般府民には希望者に無料で配布されました。
  内容は「日本国憲法」、「教育基本法」、「児童憲章」からなり、濃紺の表紙に白抜きで「憲法」と書かれた「ポケット憲法」はその後、女性には赤い表紙、教師は緑の表紙となり、府政の隅々に憲法の精神をいかした、人間味のある、府政推進の大きな力となりました。
  蜷川府政のもとでの「憲法運動」は同年10月には「憲法を暮らしの中に生かそう 京都府」の幅1.2メートル、長さ7.5メートルの大たれ幕となり、年2回5月3日と11月3日に憲法記念の集会開催となっていきました。

 

■年末はやっぱり「ポケット憲法」

 「9.11を忘れるな!」と言って在りもしない「大量破壊兵器」をでっち上げ、テロ攻撃を口実とした徹底した監視社会と「愛国法」という人権制限・抑圧法律を通したアメリカ。そして、日本が攻撃を受けた場合の「備えあれば憂いなし」を理由に「国民保護法」、憲法改悪の策動等々、私たち一人一人があらためて「ポケット憲法」の歴史を振り返るのも2004年の締めくくりには大切な事ではないでしょうか。

 

救急救命ER

2004/11/18

 「ハーッ、ハーッ、ゼーッ、ゼーッ」先日、左京区宝が池で「憲法まつり」が開催され、その準備に向かうため池周辺のジョギングコースを息を切らしながら歩いていた。ボート乗り場近くで男性が倒れているのを発見。お年寄りが自転車から落ちて顔面紫色! 身動一つしない! 私を含め集まった「一般人」がまずした事は、「大丈夫ですか、大丈夫ですか?」、返事がない。「息はしているか?」、「息はしてるみたいだ」、「体は動かすな!」、「さわるな!」、「そのままの姿勢が一番安全だ!」「救急車、救急車を呼べ!」そして全員でじっと救急車が来るのを待つ。「ピーポー、ピーポー、ピーポー」数分後とりあえず病院へ。
 そんな中、京都市は突然、心肺停止を処置する除細動器37台(1500万円)購入、設置を明らかにした。しかし職員の事前研修計画や、訓練計画など一切未定。突然倒れた人に一次救命処置として電気ショックで心臓を蘇生させる機器を一体誰が装着し、スイッチを入れるのでしょうかね。
 市幹部の思いつき的議会対策の予算措置なのか、何もかもが突然の出来事。


「危機管理 どいつも、こいつも」

2004/11/4

 日本列島を次から次と襲う災害・事件の数々。市職労も大江町、宮津市へとバスに乗り込みボランティア、職場では緊急カンパ。
 その一方でこの緊急事態に本当に能天気な人間をトップに掲げる組織は大変だ。


<その1>小泉首相の場合  新潟中越地震

10月23日
午後5時56分 新潟 震度7の激震、東京も震度4
午後5時59分 東京国際映画祭オープニングセレモニーで挨拶
午後6時06分 秘書官から新潟で震度6のメモ渡され、その後公用車の中で情報収集
午後6時30分 映画館に移り、そこで新幹線脱線の連絡を受けたが、オープニング映画「隠し剣 鬼の爪」鑑賞を予定していたが舞台挨拶を聞かないと失礼と判断してそのまま残る。
午後7時8分 ようやく映画館を発つ


<その2>桝本京都市長の場合

10月21日 京都府の要請を受け京都市職員による消防活動、給水活動開始
10月23日 災害ゴミの収集作業等に職員派遣開始。
10月24日 また京都市職労もボランティア支援開始
10月27日 市役所前広場で京都市救援物資搬送出発式(毛利副市長激励の言葉)を行う。同時刻、桝本市長は滋賀県のゴルフ場にてゴルフコンペに興じる。参加者桝本京都市長、守本北消防署長、ほか副署長1、課長4、など消防局から11名、消防団有志153名。


「歴史都市・京都創生策(案)」には違和感が

2004/10/22

 書店に並ぶ京の本の数々。今はやりの新撰組(『壬生の狼』と呼ばれた剣客・刺客集団で京都での評価はいまいち)ゆかりの地をはじめとした史跡観光を中心とした情報系の観光雑誌から、経済的にも、時間的にも余裕のできた中高年齢層にターゲットを絞り、本の装丁も落ち着いた雰囲気で文化の香りを感じさせる観光雑誌まで、書籍コーナーの一等地を占拠している。
  また、10月14日には「京町屋の保全には多額の費用がかかることを知った。少しでも役立ててもらいたかった」と東京の女性が5000万円の寄付を京都市に申し出た。
 あらためて京都の歴史、伝統、文化が日本人にとってかけがえのないものであることを感じる。

 しかし、その京都の保全、再生について市が10月13日に発表した「歴史都市・京都創生策(案)」には大きな違和感を感じる。
 そこでは、日本文化、日本人の精神の原点たる京都を守り伝えることは国家的にも重要な意味を持っていると指摘した上で、@日本人のアイデンティティーの自覚、A美しい日本の再生、B日本の伝統の継承と日本人の心の美しさ、C国際社会への発信、の4条件を全て満たすことができるのは日本人自身にとっても求心力のある京都以外に考えられない、として京都創生は、国家戦略として位置づけと取組まれるべきものなのであると主張している。
 日本の他の地域には無い京都の「特別の価値」をことさら強調し、国民の税金を集中的に投入して当たり前という姿勢には、中華思想的おごりを感じてしまう。
そのことは同じ課題を抱える歴史都市は京都以外にもあるが「モデルは一つのほうが時間がかからない」(総合企画局)と説明しているように、視野の狭い小役人的官僚の姿勢が読み取れる。

 また「京都人は長い間京都文化を守ってきたが、今や残念ながら京都の力だけでは京都は守れない」(国家戦略としての京都創生の提言)と告白しているように、京都破壊に対する完全降伏白旗論が出発点にある。現状の問題点とそれを生んだ背景、原因を一切不問に付すものである。同時に行政が市民と協力し全力で問題解決の道筋を探るのではなく、奈良を初めとした歴史都市とは別格の「特別な価値」を持つ京都市(京都ではなく)が、国に対して中央官僚や「学者、文化人」と言われる人たちに頼りながら頭を下げる、反骨と進取の気性にとんだ「京都らしさ」とはまさに無縁のものと感じるのは私だけだろうか?




*参考までに、10月14日「京都創生推進フォーラム」での指摘
「中央官庁ばかりをあてにするのではなく、国民という意味で『ナショナル』のプロジェクトに」
(京都市景観・まちづくりセンター理事 三村浩史京大名誉教授)

「国の税金で少しでも予算を欲しいと考えるのは(歴史都市の)奈良や鎌倉も同じ。『京都がそこまでやっているのなら』と見かねて助けてくれるぐらいまで、京都自身がやらなければならない」
(京都商工会議所会頭 村田純一)


ホームページリニューアル!

2004/9/1
京都市職員労働組合のホームページリニューアルに際して、京都市職労らしい新企画を是非との声にこたえ、新コーナー「御池五目飯」、わかりやすく言えば「何でもコラム」を開設することになりました。
 名称が決まるまではかんかんがくがく。「市政コラム」「市政展望」「市政を斬る」「バッサリ御池」「御池のすずめ」「御池Yapoo」「チャーハン御池」等など。そして激論の末決まったのが京都市政に限定せずに何でもありの「御池五目飯」。「継続は力なり」、「更新が命なり」でがんばります。よろしくお願いします。
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