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2016年07月22日

市職労70年 温故知新①

戦争体験が原点
「全体の奉仕者」の生き方

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元京都市職員 村上 敏明さん

 京都市職労が結成されて70年。市民とともに歩んできた長い道のりには、いま未来に向かう私たちにとって多くの学ぶべきことがあります。先人たちが担って来た市職労運動を振り返り、新しい次代を切り開く展望をつかみましょう。

仕事・活動の原点に戦争体験

 間もなく82歳のぼくの公務員生活49年(再就職を含む)、そして現在も「全体の奉仕者」という言葉との葛藤、いかに生きていくのか、模索し続けています。
 関西電力前で毎週金曜日に行われている「キンカン行動」に4年間、休むことなく参加し、「子どもや孫に原発は残すな」と声をあげています。ぼくを突き動かすものは、「『全体の奉仕者』として十分ではなかった」という思いと戦争時の体験なのでしょう。
 旧満州からの引き揚げ体験。日本の傀儡政権である満州への日本の入植政策により、左京区役所に勤めていた父は、「給料が倍になる」ということから、植民地満州の現状を考えることもなく、家族4人で満州に渡りました。鞭を持って苦力(中国人労働者)を働かせる仕事もあったと聞きます。
 そして、昭和20年の敗戦を迎えます。11歳でした。父はシベリア抑留、母と8歳と4歳の弟、1歳の妹と翌21年7月、日本へ引き揚げることに。その時、妹は栄養失調で、「長旅には耐えられない。連れて帰れない」と言われ、「殺しなさい」と命じられたのです。母が妹を抱き、ぼくには何か分からない液体を、口に流し込みました。妹はすぐ息絶えました。その時から母は体調を崩し、日本に引き揚げる船に乗る直前に、葫蘆島の病院に収容されました。その数日後、医者からいつもと違う薬を受け取り、母に飲ますと、口から泡を吹いて母は亡くなりました。丘の中腹の土饅頭の一つになりました。

「市民と共に働く」先輩の心意気を受け継いで

 昭和26年、中学卒業後すぐ、京都市教育委員会で働き始めました。本庁4階から眺めた当時のメーデー、市役所前は荒れました。交通局のストライキに対する弾圧などで、市職労へ入ることを躊躇した後、仲間に励まされ組合加入。直後から、青年婦人協議会(青年女性部の前身)の役員もしました。そこでの多彩な人々との交流が有意義でした。その市職労ですが、戦前、京都市社会課の「調査報告」(国会図書館など所蔵)で西陣を中心にした市民の生活実態調査をまとめ上げ、市政に生かそうとした市職員が、「社会主義思想の普及だ」と治安維持法によって検挙されるという事件がありました。
 こうした人たちが、京都市職労の結成に関わられたことを後に知ったのですが、感慨深い思い出です。ぼく自身、「仲間そして市民と共に働く」という思いが強くなりました。
 職場は、各学校の職員が持ってこられる文書を受け付ける仕事でした。能率化、コンピュータ化以前、人と人のつながりが濃い時代に「共に働く」ことの楽しさを養われたのだと思います。

時代の正体をつかむために学ぶこと

 これまでの仕事の中で印象に残るのは昭和42年、革新・富井市政が誕生した時です。その時、係は学校の運営予算を担当していました。富井清市長は学校運営費の父母負担を軽減する公約をされており、当選後は公約どおり増額されることになったのです。当時は、学校運営費の多くが私費(父母負担)によって賄われていて、学校間の財政面での格差が生じていました。冬の教室の暖房費もそうでした。温かい教室で学べる子どもたちがいる一方、暖房の十分でない教室で学ぶ子どもたちがいました。市長公約を裏付ける資料作りを担当しました。「学習に最適な温度は何℃か」「冬季の暖房の必要期間は何日間か」など、京都の気象台に通って調べました。富井市政実現に努力した市職労の一員として、誇りある仕事でした。他に学校図書館運営費などが公費負担になりました。
 こうした体験も「市民への奉仕」とは、何なのかを考える基礎になったのでしょう。
 若い人たちに望むことは、「良く学び、時代の正体を見極める力や市民のくらしの実相を想像し、子どもの未来への大人の責任」を考えてほしい。それからファッショ化、中央集権化がすすむ今、「地方自治を守る」、市民がふつうに暮らし働くことができる世の中にすることが喫緊の課題です。様々な重圧の中、困難もありますが、地方自治のあり方を研究する活動の日常化への努力をされ、公務員、そして尊厳ある人として誇りを持って歩み続けてください。