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2016年11月24日

市職労70年 温故知新④

「世界に誇れる京響」にたたかいの歴史あり

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石橋 耕三さん
元・市職労文観支部(文化公室支部)副支部長、京響分会分会長
現・日本音楽家ユニオン関西地方本部副代表

無権利状態に組合結成

 京都市交響楽団の創団当時は正職員と嘱託職員で雇用が二分され、嘱託職員は殆ど無権利状態。1年更新の秘密契約で、個別に次年度の契約金を提示され、〝嫌なら辞めてもらって結構〟という調子でした。個人的なやりとりで、「次年度は500円あげてやる」と言われる。退職金も殆どないという状況で、4月になると人がいなくなる。退団のあいさつもなしに、契約を更新されなかったのか、辞めざるを得なかったのか。一方で、正職員には昇給や昇格などもあり、両者の賃金格差は拡大するばかりでした。
 そのなかで、1965年に一方的に正職員化が打ち切られる事態が起こりました。こうした無権利状態を改善するために、1967年に組合結成に至ります。
 〝決死の思いで、血判書に名を連ね、団結を崩さないように誓いあう〟という、今では笑い話のようですが(笑)。組合結成の際には、「嘱託職員だけの組合にしよう」という動きに、「個別的な動きではなく、正職員も含めた全体の運動をすすめるべき」という市職労本部の意見をふまえ、一丸で運動を展開していくことができました。
 組合結成後に7人の首切り問題が起こります。正職員化をストップして、人件費を抑制するという考えが市議会や当局にあったようですが、市職労全体のものにして反対闘争に決起しました。市職労第20回定期大会で、「首切り絶対反対、京響嘱託員全員正職員化」の決議も採択されました。その結果、当局は白紙撤回しますが、その後に「正職員化闘争」が始まりました。

「職場要求の実現は職場から」

 そして1971年(昭和46年)、正職員化闘争の最大の山場となり、「46闘争」と呼ばれる市職労運動の歴史的な闘争が行われました。私が京響に入団したのは、この闘争の最中でした。
 定期演奏会のストライキを構えて、演奏会の練習はやりながら、練習後は京都会館の会議室で、深夜まで団体交渉を連日行ったのです。それも市職労本部、支部と全体でたたかいました。また、組合員の家族の炊き出しもあり、家族ぐるみのたたかいでもありました。
 決行か回避か、ぎりぎりの選択が迫られるなかで、ストライキは回避して、定期演奏会をやりきりましたが、そのときの演奏は、音楽にプラスされた気迫がこもるもので、聴衆からも歓声があがりました。
 闘争の結果は、全員の正職員化は勝ち取れませんでしたが、それまでの無権利状態から「京響楽員の身分保障」「大幅待遇改善」「人勧の平年度化」「給料表に基づく定期昇給」「諸手当の支給」を勝ち取りました。
 また、市職労全体でたたかったなかで、京響だけでなく、ホームヘルパーの正職員化闘争とも共闘し、ヘルパーの正職員化を勝ち取ったことは、広がりのある大きな運動の成果でした。
 この大闘争を経験して、「職場要求の実現は職場から」という主体的な運動の展開を教訓に1972年、京響分会の結成となりました。
 処遇改善の課題では、1986年の「給与体系の抜本的改善と定年制度の確立」のたたかいも大きな経験でした。46闘争で待遇改善がされましたが、まだまだ賃金面で課題を残していたところ、行政職給与表を適用させた新給与制度を勝ち取りました。

「市民の京響」を掲げて

 京響は合理化の攻撃のなかで、市の直営を堅持させながら、たたかってきた歴史があります。同時に、待遇改善をめぐる闘争のなかで、たたかいを後押しするのは「市民の理解・支持」がなくてはならないと実感しました。自治研活動や文化活動、学校巡回や楽器教室、闘争への「連帯」演奏などにも取り組み、「市民と一体となってオーケストラを育ててもらう」という京響創団の精神を生かし、市民とともに歩む「市民の京響」を掲げました。それが、全国のオーケストラの組合のたたかいに影響を与えました。
 現在、京響は財団に移行しましたが、質の高い演奏を堅持しています。文化と言っても、文化事業で建物を建てても、人への投資など、ソフト面を軽視すると、文化遺産としては残らない。大阪などは、文化予算を縮小し、文化破壊をしたことにより、文化水準を落としました。そのようなところでは、オーケストラでもらえる給料ではやっていけないから、ダブルワークをしている人もいます。
 実感するのは、京響の演奏は優れており、実力がある。日本の音楽界のなかでも評価が高くなっており、「三本の指に入るのではないか」と自負しています。その質の高い水準を保ち、育ってきたのは、京響分会の闘争の歴史があったからです。