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2017年03月06日

市職労70年 温故知新⑥

いい看護がしたい―患者さんに花束で迎えられた夜勤制限闘争

患者本位の看護学習深めて

丸太町七本松にあった京都市中央市民病院と、西大路五条にあった市立京都病院(伝染病院)を、当時の高山市長が「統合して日本一の医療センターにする」構想を打ち出し、1965年に現在の場所に統合されます。
その過程で当時の病院分会は、「日本一にふさわしい労働条件」を求めてたたかいます。夜勤回数は月15回前後でしたが、2人夜勤体制や夜勤時のタクシー代支給、国の4倍の夜勤手当などを実現していました。
その後、1968年に新潟県立病院から始まった看護婦夜勤制限闘争が全国に燎原の火のように広がり、市立病院も夜勤制限闘争に取り組みます。年休も取れず、勤務の半分が夜勤という状況は、既婚看護師の約半数に流産や異常出産をもたらし、子どもが生まれても、保育所がなく退職を余儀なくされていました。一方、若い看護師は身体がしんどくても国の4倍の手当がでるなか、夜勤をさほど嫌がっていませんでした。
病院分会では、夜勤制限闘争をすすめるにあたり、単純な労働条件改善というだけでなく、「患者本位の看護とはなにか」「看護の本質とは何か」「8回夜勤体制になったらどんな看護ができるのか」など、学習を重視しました。
そのなかで、若い看護師たちも「自分の仕事に対して責任を持つこと、看護の本質とは何かなどを学び、仕事をまじめに考えだすと、月14~16回の夜勤をこなし、仕事が終わると寮に帰るだけで、看服とパジャマがあれば過ごせるという日々に矛盾を感じるようになりました」という声が多く聞かれました。
夜勤制限闘争は、患者本位の医療・看護を提供していくために、どういう医療・看護体制が必要なのかを問いただすたたかいとなり、その後の病院給食の在り方にも影響を与えました。

激論かさね確立した組合ダイヤ

病院分会は、本部役員も含めた闘争委員会を作り、人事委員会への提訴、労働基準局への摘発、「組合ダイヤによる勤務体制の実施」の3つの行動を柱に運動をすすめました。
「組合ダイヤによる勤務体制の実施」という方針は賛否両論、大変な議論となりました。看護師は、月単位で病棟師長がつくる勤務表で勤務シフトが決まります。その勤務表を、月8回2人以上夜勤、年休2日に生休2日も組み込んだ組合ダイヤで、分会が全病棟の1カ月分を作成し、その勤務表で全職場勤務するという形の逆ストライキです。
「ストライキは仕事をしないことちゃうの?」「できるわけない」など、かんかんがくがくの議論を各職場代表が集まって一泊かけて行いました。「月8回夜勤」になったら看護内容がどう変わるのか、どんな看護がしたいのかなど、これまでの全職場討議もふまえ、「ストライキは職場を放棄することだけど、私たち看護師は職場を放棄しない、患者さんのためにいい看護をしたいから、そのための体制で仕事をしよう」と激論のすえ「やろう、やらなあかん」ということになりました。
そして富井民主市政のもと、市職労本部も闘争支援体制をつくり、京都の医療労働組合が、「市立病院で突破口をつくろう」と、組合ダイヤによる勤務ストライキを助けてくれました。市立病院の看護師だけで不足する部分を府立病院、京大病院、第1日赤、第2日赤と、いろいろな病院の組合から「この日はうちで責任を持つ」という回答をよせてくれたのです。

患者さんの声と団結の力で

3カ月あまりをかけた職場討議をふまえ、休暇はもちろん、夜勤前後も利用して、市職労の全職場や市内各地の病院などに支援を訴え、毎週の街頭署名宣伝行動等、市民合意をひろげる運動に取り組んでいきました。そのなかで大きかったのは、患者さんの声を前面に出したことでした。患者さんが手記を書いてくれ、私たちの「いい看護をしたい」という要求を「いい医療、いい看護を受けたい」という患者要求として支えてくれました。
そして3月28日のスト批准投票は、極めて高い批准率で成功し、当局の姿勢を変えました。3月31日の最終交渉は、22時40分、組合ダイヤで深夜勤務予定の看護師を中心にした看護婦総決起集会を背景に、月8回夜勤体制の実現、保育所設置など、全面勝利の回答を引き出しました。
本来の深夜勤務者をみんなで送り出すと、患者さんが花束を持って迎える病棟もありました。
以来、病院支部は「患者本位のいい医療・いい看護」を問い続け、人間らしい働き方を求めて運動を重ねてきました。
当事者が声をあげ、働く仲間の団結を瞳のように大切にすることを今後の運動にも活かしてほしいです。


元病院支部長
高田なお子さん(左)

元書記長
田代誓子さん(右)