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インタビュー:龍谷大学教授広原盛明さんに聞く



京都市職労委員長 池田 豊 インタビュー

龍谷大学教授 広原盛明さんに聞く

 お訪ねしたのは広原 盛明・龍谷大学教授。大きな体格からは研究者としての信念の強さが、好奇心に溢れた少年のような面影が宿っている笑顔からは、地域に軸足を置いて住民と共に歩んできた研究者としての自負が垣間見える。京都の街を愛し、かつては京都市電撤廃反対運動の先頭に立った人でもある。その柔和な語り口は正義感に溢れ、相次ぐ京都のまち壊し、デタラメ行政に起因する税金の無駄遣い等々に対しては舌鋒鋭い行政批判となって容赦ない。住民運動関係者から「センセ」と親しまれる広原先生に京都のまちづくり、行政の役割などをお聞きした。

龍谷大学教授 広原盛明さん

■戦後民主主義の「第一期生」です

池田 有事法の動きをみていましても、きな臭さが漂ってきています。先生はお生まれが1938年ですから、戦争体験もなされておられます。まず広原先生が生きてこられた時代を、生い立ちを含めてお聞かせください。

広原 私は1938年(昭和13)生まれですから、第二次世界大戦の前です。現在の中国東北部、昔の満州国ハルビン市というロシアのつくった街で生まれました。父親は南満州鉄道(満鉄)の技術者でしたが、私が三歳のときに急性肺炎で亡くなりました。ですから開戦直前に実家のある奈良県に引き揚げ、祖父が親権者となって育てられました。封建的な村だったので、小さい頃から外へ出たいという気持ちが強く、高校は大阪の天王寺高校、大学は京都大学の建築学科に進学したわけです。以降はずっと京都に暮らしています。
 敗戦は、私が国民学校一年生のときです。村の小学校の校庭で天皇の終戦の詔勅を聞きました。大阪大空襲や焼け野原の街、天王寺駅や梅田駅に当時の言葉で浮浪児が群がっていたことも鮮明に記憶しています。私の場合、言い換えれば戦後民主主義の第一期生です。民主化・近代化に強い憧れを感じた少年時代でした。そういった時代環境でしたから社会正義感の強い面はありますが、私は基本的に体育会系です(笑)。

池田 そういえば体格をみてもスポーツマンらしさを感じますが、それは初耳ですね。

広原 中学校の頃から陸上競技をやっていました。走高跳びで奈良県下で優勝したり、高校でも大阪府下で優勝し、大学でも関西学生の一部で優勝しました。京大では陸上部の監督もやりました。そのぶん、多少大学時代は勉学がおろそかになっていましたね(笑)。大学四年生のときが六〇年安保闘争で、このときグラウンドが空になりました。全部デモに参加しましたから…。あまり勉強はしていなかったのですが、その後、西山研究室に誘われて大学院に進み、研究者の道を歩み始めたわけです。

池田 大学院に進み、西山研究室で本格的に体育会系からの転身を図られたわけですか(笑)。体育会系から建築に進まれた背景も興味のあるところです。

広原 建築を選んだ理由は二つありました。一つは当時の理工系ブームです。私が育った田舎の感覚ですと、文系では飯が食べられないから理工系に行け、といったレベルでした。もう一つは私の場合、中学校は大和高田市に通っていたのですが、そこに巨大な部落がありました。生徒会活動として訪問し、当時の部落の実態を目の当たりにして衝撃を受けるわけです。また戦災復興についても強い関心がありました。
 大学のときは、東三条地区で戦後最初の改良事業が行われることになり、京都市から委託を受けて西山研究室の一員として調査に参加しました。京都市内の田中、楽只、竹田、崇仁地区なども調査に行きました。阪神淡路大震災後に建築志望の学生が大きく増えたように、私たちも戦後の荒廃状況のなかで、何とか住宅や居住環境を良くしたいと思っていたのです。昔も今も若者は同じです。ですから、最近の同和行政に絡む不正事件が次から次へ出てくると我慢がならないし、また、許せないと思うのです。


■京都の市電撤去反対運動の先頭に立った時代

池田 広原先生というと、すぐに頭に浮かんでくるのが京都の市電撤去反対運動です。いまから振り返ると非常に先見性のあった取り組みでした。京都の市電撤去反対運動は、市民運動の初期の頃の歴史的な運動でしたね。

広原 私が大学院生から助手になる頃、1960年代後半から70年代にかけては、公害問題が全国的に激化した時代です。京都も宮津火力発電所の反対運動から始まり、次第に京都市内の公害問題に市民の目が向けられるようになりました。当時の京都市内は、自動車の排ガス問題が深刻でした。京都の市街地は盆地ですし、京都の公害対策はまさに自動車対策だと言われているときに、交通局が市電撤去を言い出したのです。鉄道は蒸気機関車やディーゼルからクリーンでエネルギー効率の良い電車に代わっていくのに、なぜ路面交通が電車からディーゼルバスやガソリンエンジンの車になるのか、これはおかしい。都市計画からしても道路を効率的に使える市電をどうして個人的な乗物のマイカーに代えるのか、これもおかしい。また、福祉の観点からみても市電はすぐ乗れるし、階段の上がり下りもない。文化的な面からみても、都市の景色を見ながら行くという、本当に京都にふさわしい乗り物が市電でした。それを自動車交通の妨げになるから撤去するというのは本末転倒です。

 撤去計画がスタートしたときは富井市政でしたが、富井市長が倒れて船橋市政になった時期に「京都の市電をまもる会」が発足して活動を始め、私が事務局長になりました。湯川秀樹先生ら京都のあらゆる著名人が加わって運動は広がり、8年間続きました。市役所にも100回を超えるくらい出向きました。守衛さんが運動を応援してくれて、私たちが市役所に行くと敬礼をして迎えてくれるのです。いまあちこちで路面電車復活の動きや要望が出されていますが、その趣旨は私たちが35年前に言ってきたこととまったく同じです。市電存続条例の制定を求める直接請求署名運動が受任者だけで1万人を超え、27万人もの署名を集めたわけですが、こともあろうか、当時の議会は僅か2分くらいで否決してしまいした。
 私の研究フィールドは都市であり、専門が都市計画ですから、自治体の行政や職員といい関係を築いて、お互いに切磋琢磨していく研究スタイルがいちばん望ましいのです。この点からみると、市電撤去問題で京都市や交通局と対立したことは残念なことだったと思います。

池田 広原先生は兵庫県や神戸市の方でもいろいろな取り組みに関わっておられます。そのきっかけはどういったところから…。

広原 市電撤去反対運動と併行して、私は当時西陣地域で狭い道に自動車を入れると問題が起こるから、どうすれば自動車をシャットアウトできるか、といった研究をしていました。いまでいうところの歩行者天国です。道だけではだめですから、学校も校庭も放課後は開放してほしいと思っていましたから、学校を地域に開放するという神戸市の構想を聞いて神戸市に行ったのです。
 そこでちょっとした縁で長田区丸山地区の人たちと知り合いになり、それから住民と一緒に西山研究室としてまちづくりに取り組み始めたわけです。大学の研究室と住民が一緒になってまちづくりの運動と研究を取り組んだのは、おそらくはこれが初めてでしょう。当時は、都市計画は役所が決め、研究者は審議会メンバーになって大所高所から意見を述べるといったスタイルが普通でした。住民と一緒にまちづくりをやろうというのは学者ではない、そういった風潮がまだ色濃く残っていた時代です。ちなみに日本建築学会は110年を超える歴史を持つ伝統のある学会ですが、そこで「まちづくり」という言葉を使ってはじめて学術論文を書いたのが私たちでした。


■震災を「千載一遇のチャンス」と捉えた行政に見切り

池田 広原先生の場合、1970年代から二十数年間にわたって神戸市の審議会委員も長年務めて来られていたわけですが、阪神大震災後に神戸市から決別したのはどういった理由からですか?

広原 大震災の発生当時、私は学長(京都府立大学)でしたから、まずは自分の大学の被災地に在籍する学生の安否確認の問題がありますので、現地に入ったのは震災から三日後の休日でした。阪急西宮北口駅から数時間歩いて市役所に行くと、職員は不眠不休で足がグローブのように膨れあがってもがんばっていました。それから可能な限りの支援を取り組んだのですが、こともあろうに神戸市が市街地を整備するといって、震災発生から僅か二ヵ月後の3月27日に都市計画決定を強行したのです。この瞬間に私と市役所の信頼関係が切れました。避難所に被災者があふれ、被災地の現場にだれもいないときに、神戸市は都市計画決定をしたのです。

 あとで調べてみると、神戸市は震災の翌日から都市計画の調査に出向いているのです。現場ではまだ人が倒れた家の下敷きになって埋まっていて、水が欲しい、食べ物が欲しい助けてくれと言っているときに、です。こういった行政は根本的に間違っています。人を助けずにおいて、都市計画決定のための基礎調査にとりかかるというのですから。そして神戸市はこの際、国の震災復興事業を利用して何もかもやってしまおうと、二週間で復興プランをつくり、二ヵ月で都市計画決定をしたのです。この人たちは震災を千載一遇のチャンスと捉えたのではないでしょうか。実際に専門家が集まった会議でも「今回の震災の復興はむずかしい。なぜなら第二次世界大戦のときのようにすべて焼けなかったからだ」との発言もみられました。

池田 まだらに残っているのでは困る、焼け野原になってこそ、初めてきれいな都市が建設できるという発想ですね。

広原 ですから仮設住宅の建設を、元々住民が住んでいた場所になかなか認めようとしませんでした。そこに仮設住宅が建って人が住みだすと、再開発事業がむずかしくなります。戦後のヤミ市場やスラムと同じように撤去させるには長い時間がかかるわけです。だから仮設住宅はできるだけ山の中や埋立地へ持っていく。人と暮らしの復興ということで考えると、被災者が住み続けたところに住み続けながら、どうやって生活再建をするかということが大切になります。そのためには、できるだけ元の場所に人が住まないとだめです。ところが土木的というかハードな面からすると、そこに人がいることが復興都市計画の邪魔になるわけです。私はこのことを一貫して批判しましましたが、行政には受け入れられなかったようです。

 都市の再開発は、そこに住む人を一旦クリアランスにしてどこかへ移し、計画が完了したらまた戻すというのは基本的に間違いです。京都駅の工事をみても、工事中は鉄道を止めて、完成したら鉄道を通すというようなことはやっていません。都市の活動は、ハコモノが完成するまで一時期ストップさせてもよい、そのような性格のものではないのです。

池田 「都市計画からまちづくりへ」という視点をどこに置くのか、ということが問われていますね。かたちを整えるというよりも、住民の生活の質をどう確保するのかと言うところに視点を置くと、鳥瞰して切り張りした計画ではなく、地べたからの生活をどう豊かにしていくのかという視点でしょうね。これが行政が果たす役割そのものになるわけですし…。

広原 都市や地域の空間・施設そのものに問題がある場合は、手直しも再開発も必要でしょう。しかし、いちばん大切なことは、そこに人々の生活が営まれている、コミュニティが息づいているということを見失わないことです。ハコモノを造るのが目的ではなくて、地域の生活を支えるための施設づくりであるべきです。ところが、現在の都市計画や公共事業はハコモノだけが一人歩きをして、それが目的になってしまう。ハコモノだけ造ってしまうと、あとはすべてうまくいくという逆立ちした考え方になっています。日本の都市計画や土木事業にはこういった傾向が蔓延しています。そのことが本当に赤裸々に表れたのが、阪神淡路大震災でした。
 でも現在はそのような考え方は180度転換してきています、国もそのようなことは言えません。再開発しようといっても、それで地域社会が潰れるようなことであれば、もはや都市計画は認められないでしょう。


■京都は「成熟時代を迎えたモデル都市」としての資質と条件を備えている

池田 バブルの時代に京都駅の周辺でも、地上げが行われ住民が追い出されました。いま、そういったことはすでに決着がついたとみていいのでしょうか。

広原 決着がついています。大きいハコモノを造れば都市が活性化するといった考え方が通用するのは、いまは東京の一部くらいのものです。しかし、そういったところでも、大規模な再開発事業の周辺では既存のテナントビルに空き室が増えています。一部だけが栄えてもあとは大変です。

池田 市電の撤去の際に、都市との関係で「京都論」が語られましたが、いま21世紀にふさわしい京都の「格」、まちの「格」をきちんと見据えた計画、まちづくりが必要だと思います。半面、バブル以降も京都市内中心部では大規模なマンション建設が進んでいます。一例をあげますと、マンション建設によって20戸の町内に数倍の戸数が入ってくる、これまで築いてきた地域コミュニティが崩れてくると、心配をされる町内関係者も多くみられます。業者をみても姉小路の運動に見られるように「建て逃げ」が横行しています。まち破壊が進む中で、あらためて京都のまちづくりが行政区・地域単位で行われることが求められているわけですが、京都のまちづくりに関わっておられる広原先生からみると、新しい時代にふさわしい京都づくり、まちづくりというのはどう考えておられるのでしょう。

広原 京都は日本の都市のなかでも、もっとも地域社会と生活文化の蓄積を持った街です。京都は20世紀の高度成長時代のモデルではありませんでしたが、21世紀の成熟時代では都市モデルになる資質と条件を十分に備えた都市です。長い都市の歴史から見ると、都市の変化にものすごいインパクトを与えた高度成長期というのは、戦後の50年、長くてもせいぜい100年くらいのものです。21世紀以降、京都はこれからもずっと京都であり続ける必要がありますから、持続的(サスティナブル)にゆっくりと成熟していく街としては、京都ほど条件を備えている街は他にないと思います。これはなにも京都が特別だという意味ではなく、これからの日本の都市が目指すべきモデルだという意味です。

 日本はもうこれから人口は増えないで、むしろ減少していくでしょう。これまでのように都市が外へ向かってどんどん拡大していくような時期はもう終わりつつあります。成熟時代の都市づくりというのは、それとは逆に、いまあるところをいかにきめ細かく丁寧にいいまちにしていくかということです。いままで大きいことはいいことだとばかりに、高速道路や幹線道路を通すとか、大きな商業ビルを建てることが都市計画だと言われていましたが、これからの都市計画はまったく異なったイメージになっていくでしょう。いまある町家や密集市街地などをきめ細かく改善し修復していく、そういった方向がまちづくりの主流になっていくと思います。現在の町家ブームはその先駆けとも言えます。京都という都市は21世紀の日本の都市の先駆けになる都市だということです。

 このことと関連して、今までの都市計画のようにまったく新しい大きなハコモノを造るときは予算も権限も技術も必要ですが、これからはいま言ったように都市そのものはもはや大きくする必要がない、すでに出来た街をどうやって改善していくかということになると、これは役人とか専門家は脇役でいいようになります。そこに住んでいる人たちがまちづくりの主役にならないとうまくいきません。いま京都のさまざまなところでまちづくり運動が起こり、自分たちの住むまちを良くしていきたいと地域の住民の方々が取り組んでおられます。地域によってそれぞれテーマは違いますが、自分たちの住むところに誇りを持ち、環境に気を配り、お互いのコミュニティ・ネットワークを維持しながら、いいまち(街)にしていこうという営みは、まさに住民こそがまちづくりの主役であることを表しています。

 このような運動に対して行政の取るべき態度は、役所はどうやって住民をサポートしていくべきかということでしょう。神戸市の場合は、ここのところを勘違いをしているというか、分かっていません。役所の人間は自分たちがまちづくりのリーダーだと思っているのです。彼らはサッカーでいえばプレーヤーになりたい、市民を観客・サポーターにしたいわけです。まったくあべこべです。市民がプレーヤーで、役人がサポーターなのです。

 京都の場合は、これまで積み上げてきた地域社会と生活文化の伝統があります。これはすごい財産です。私は都市の財産や資源をみた場合、いちばん大切なのは人的資源だといつも言っているのですが、これは人と地域社会の質を指します。いくら人が多く住んでいても、その人たちがばらばらではまちは形成されません。ですが、京都の場合は質的に高い人的ストックがあります。この人たちを大切にしてまちづくりに活用すれば、すばらしい都市ができるでしょう。

 例えば都市の景観問題ひとつをとってみても、京都ほどそれが問題になる都市は他にあまり見られません。京都の人は自分たちの周囲の環境・景観にすごく敏感に反応します。それだけ関心が深いわけです。これもまちづくりの得難い要素であり、資源です。
 京都というのはヨーロッパ型の都市社会に近い性格を持っている街だと思います。少し話が逸れますが、私がイギリスに留学していたときに、ある人から「あなたの前をお年寄りが歩いている。その先に工事現場があります。あなたはどうしますか」と問いかけられました。いちばん親切な対応は「危ないですよ」と声を掛け、手を引いて向こうへ連れて渡ってあげることでしょう。でもイギリスの場合は、お年寄りの後ろからそれとなくついていって、本人が自分で向こうへ行けたら何気なく離れていくし、危ないようだったら手を差し伸べる、というのが基本的な人間関係です。

 それぞれが自立した市民としてやっていきましょう、しかし、何かリスクが生じた場合はお互いに助け合いましょう、だれかがちゃんとやっているときに、おせっかいするのは慎みましょうというスタンスです。同様に京都の場合をみても、こういった洗練された個人主義が形成されています。京都はそういった都市文化を持っている日本国内では唯一に近い都市です。これも成熟の時代を迎えた日本の都市モデルになるでしょうね。
 もうひとつ言いますと、門掃きの習慣ひとつをとってをみても京都は面白いですね。道路にセンターラインがあり、両側に境界線がある。その範囲に少しだけのりしろをつけて掃く人が多い。あるお年寄りに質問すると「みんながちゃんと掃けば、街はきれいになります。他所さんのところまで掃いてあげたら却って気を使わせますし、掃いていただいても気疲れします」と言っておられました。これはまさに洗練されたヨーロッパ型の個人主義です。京都は自然が美しく、歴史的な文化財も豊富ですが、市民の生活様式、都市の住み方に関しても高い生活文化があります。行政はここを大切にしないとだめでしょうね。

 私はマンションは建ってもいいと思います。だが地域の作法に合った建て方、地域のおつきあいの作法に合ったかたちで入ってきてほしいと思います。地域に蓄積されてきた高度な生活文化を学ぶという謙虚な姿勢で入ってきて欲しいと思います。このような考え方は、従来のハコモノ中心の都市計画論、都市開発論とは全く違います。むしろ社会学に近いまちづくり論かも知れません。でも、これが本当の京都のまちづくり論なのです。


■行政はリーダーでなく、サポートする役割を

池田 自治体、公務員労働の在り方としても、分かりやすいですね。プレーヤー的な感覚というのは官僚的な市政と相まって、無意識のうちに蓄積されていっていることは否定できません。いま行政はパートナーシップとよく口にしますが、あれももうひとつしっくりきません。結果的にもたれ合いの部分もありますし、さきほど先生がおっしゃられたように、行政は住民をサポートするということが大切ですね。

広原 これからの京都の都市計画・まちづくりは、やはり地域の環境と地域社会を両方つくっていくことが基本です。だから新しく郊外住宅地ができても、地域社会が形成されるにはそれなりの時間が必要です。いまの都市計画には時間という要素が重視されていません。高度成長期の発想のままです。ニュータウンをつくる場合でも早く多くつくることが行政官庁に求められました。しかし、一挙につくってしまうと、蛇がタマゴを飲んだようにある時期に幼稚園が足らない、教室が足らないという現象が起こってきます。また、それが過ぎると余ってきます。かつてイギリスのニュータウンは30年かけてつくるという発想に驚いたことがありましたが、30年というのは地域社会をつくっていくために必要な時間なのです。お年寄りがいて、子どももいるという普通の地域社会をつくっていくために必要な時間でもあるわけです。
 京都の市街地の中でも高度成長期に出来たところは、これからまちの歪みをどうやって是正し、安定した地域社会に変えていくかということが問われています。行政はそういったまちづくりを地道にサポートしていくことが求められているのです。道路をつくった、○○をつくった、あとは勝手に住んでくださいという程度では、これはおそろしくレベルの低い都市計画という他はないですね。

池田 京都の持つ潜在的な力、資源に確信を深めると共に、行政の果たす役割についてもとても参考になりました。ありがとうございました。

【プロフィール】

ひろはら
広原
もりあき
盛明

1938年中国東北部(旧満州)ハルビン市生まれ。

 京都大学工学部建築学科卒業、京都大学大学院工学研究科博士課程退学、京都大学助手・講師を経て、1971年京都府立大学助教授、1985年教授、1992〜98年学長、2000年から龍谷大学法学部教授。

 専攻は都市政策、住宅・都市計画学。著書に『町内会の研究』(編著)、『現代のまちづくりと地域社会の変革』(共著)、『震災・神戸都市計画の検証』『日本の都市法U』(共著)、『少子高齢社会の都市住宅学』(編著)など。

 NPO法人「西山記念すまい・まちづくり文庫」理事長、都市住宅学会学術委員長、コミュニティ政策学会副会長などを務める。

 
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